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2007.08.30
「ただ、生きたい」という望み 雨宮処凛『生きさせろ! 難民化する若者たち」(太田出版)
![]() | 生きさせろ! 難民化する若者たち 雨宮 処凛 (2007/03) 太田出版 この商品の詳細を見る |
彼らは一〇年後、二〇年後の日本にストリートチルドレンがいることも危惧する。私も同感だ。現在のネットカフェ難民はその始まりのように見えて仕方ない。一六歳で親が死に、そのままホームレスになった少年のことは先に書いた通りだが、一六歳の彼はホームレスなのか?それともストリートチルドレンなのか?(中略)
「『だらしない親が子どもを路上に捨てるようになった』っていわれるだけですよね」
−第六章「抵抗する人々」より−
格差問題に関して、そこそこの数の本を読んできた。
本来ならその一つ一つを「格書」してみるのが本筋なのだろうけど、とりわけ取り上げたかった一冊を久しぶりに「格書」してみる。
明治以降、日本の代表的な貧民ルポなら細井和喜蔵『女工哀史』である。タイトルだけで比較するのは恐縮だが、『女工哀史』が波のように読み手に哀れさを喚起させるのに対して、『生きさせろ!』は読み手の胸ぐらを不用意に掴まえられた感覚に陥る。いいタイトルだ。
この本で取り上げられているのは、他の多くの「格差」本も取り上げる若者の経済格差である。しかし、この本は明らかにニートや引きこもり、フリーターや派遣雇用者の立場に立つ、いやそれどころか、そうした立場の人々(僕も含む)を明らかにアジっている。「若者よ。怒れ。『自己責任』という名の罠に陥るな。私たちは何も悪くないのだ」と。
我々は反撃を開始する。
若者を低賃金で使い捨て、それによって利益を上げながら若者をバッシングするすべてのものに対して。
我々は反撃を開始する。 <はじめに>
妙に古臭い言葉のようにも、ガンダムの中にでも出てきそうなクサイ台詞にも聞こえる。
彼女の主張は、一つ。こうした低賃金で働く若者の「生存権」の確保だ。
「ただ、生きる」こと。別に、立派でも偉くでもなく、「ただ、生きる」そのことへの保障だ。
成果主義が広く浸透し、「有能であること」・「立派であること」が求められるようになった今、一方で「ただ、生きる」ことさえ困難な「ワーキングプア」という層は明らかに現れている。また、ニートや引きこもりを始め、フリーターでも自活をしていない人たちも、家族の支えを失えば生きることさえ困難になる。やがて道端に寝転がる日が来るのではないかと、不安にさえ思う。僕もまた、そうなる日が来るのではと思う。
さて、雨宮はこの本ではフリーターを中心に聞き書きをしているが、その彼らに共通するのは「お人よし」な人たちである。夢を持ってフリーターの世界に入り、やがて泥沼に陥る人々。「自分のやりたいことを探す」ためにフリーターになって、やがて30歳を過ぎ、体を壊してしまい、仕事にも恵まれず、社会保障も受けることのできない人々。こうした人々は、典型的な「ダメな若者」の象徴のように、社会からよく揶揄される。曰く「『自分』なんてどこを探してもない」・「将来の設計もない奴」だと。雨宮はそうした批判にこう答える。
しかし、なぜ『やりたいことをやる』ことが、ホームレスまで覚悟しなくてはならないほどのことなのだろう。そもそも、そこからしておかしいのだ。やりたいこととその後の人生が引きかえになれるなんてあまりにも残酷ではないか。
まぁたしかにマジメに働いてきた人たちは偉い。だが、バイトをしながら夢を追ってきた人たちも同等に偉いではないか。人の二倍働いているようなものである。そんなに引け目を感じる必要はないと思うのだ。
<2章「フリーターの実態」>
「フリーター」という、企業にとっては最も安直な労働力を使い回すことで企業の業績が回復したのは、紛れも無い事実である。しかし皮肉なことに、フリーターはハムスターのようにぐるぐると車輪を回しているだけで、彼らには微々たる恩恵しか帰ってこない。
生活に困窮し、社会からは非難を食らう。そして哀しいことに、多くのフリーター自身がそのことに気づいていない。そこが「お人よし」なのだ。この多くの「お人よし」を作り上げたのは、(アメリカの影響もあろうが)間違いなく「日本の大人」である。日本古来の自然や共同体をことごとく潰し、更地になったところにビルを高々と積み上げ、嬉々としていながら、若者に説教をぶちかます「日本の大人」である。「企業人」=「社会人」として疑わない「日本の大人」である。日本の若者の多くは「お人よし」だから、彼らの一言一言に敬意を払い、「自己啓発」に余念が無い。もちろん自己を高めるのは結構だが、自己を高めない人にも「生存権」はある。「弱肉強食」で社会を動かしてはならないのだ。
僕はこの格差問題の一番の「問題」は、「ニート」や「フリーター」のような無・低収入の若者を格好のスケープゴートにして、本質である「新自由主義」や「グローバリズム」が日本にもたらす経済問題がかすんでしまったことである。もっといえば「グローバリズム」を「第二の開国」として迎えてしまったことが一番の問題で、結果、日本人は経済の内乱状態に陥っている。
社会学者山田昌弘は、これからの日本社会を「1割のコア」と「9割の取替え可能」な人材に分けられると指摘している。(『希望格差社会』)予測はあくまで予測、おそらくこの流れに拍車がかかればそうなるのも仕方が無いのかもしれない。しかし、長時間労働の末にポイ捨てされて「それも社会」と諦めるのは、残酷な話だ。(すでに本書にもあるように、そうした事例はたくさんある)。
山田の言う「1割のコア」になるためには、それなりの能力ではダメで、とてつもない能力が必要になる。椅子も限られているし、いくら少子化とはいえ、それでも数千万の人口がこの国に将来いるのは確実だ。その1割の椅子に座る可能性の高いのは、高い能力を持つ者で、そのほとんどは裕福な家庭から生まれる。(二宮金次郎は例外!!)
そうした格差を「希望格差」と名づけた山田のネーミングセンスは秀逸だが、それ以外の方法論はないだろうか。「第三の道」が答えなのかどうかは、まだわからない。
雨宮の言うように、僕も格差の本質は企業利益優先の経済体質にあると思う。
アメリカでも状況は似たようなもので、そうした体質を次々に指摘し、皮肉ったのはマイケル・ムーアである。
最近、雨宮がTVによく出るのを目にしながら「雨宮は日本のマイケル・ムーアになるのかしらん」と思ったりする。面白い。向こうがひげヅラのデブオヤジなら、こっちはゴスロリファッションの「不気味な女」だ。
追記
仕事が好きで好きで、1年中現場に立っていたいという「職人」のような仕事をすることは、僕は魅力的だと思う。「うちこめる何かがあるのはいいよね」と多くの人が口にするそれである。問題は、多くの仕事を抱え込み、1年中仕事を「しなければならない」ような人間がたくさんいることである。単に仕事をすればいいわけではない。極端に短い納期・高いノルマ・抱えきれない担当、その多くの「責任」を持たせて、効率よく、そしてキチンと良い結果を出す人間を「立派」だという社会の風潮である。確かに仕事ができることは「立派」で、一つの魅力的な存在ではあるが、「人間力」(とはほんとになんぞや?)や「社会人」(社会に生きていれば老いも若いも社会人だろ)というわけのわからない言葉でもって、仕事ができるかできないかで人間の全てを判断するのはおかしい。
そうした社会の構成員たる一人一人の無言の圧迫が、時に人を死に追い詰める格好の材料となっていることに気づいてほしい。人間はスーパーマンではない。能力の限界を超え、満身傷だらけになって、それでも「責任」を追求し追及されるのは、少し酷ではないかと。そして、「それが社会」だと開き直るなと。開き直るなら開き直るで「この世は弱肉強食」だと高らかに謳えばいい。「人間力」だの「社会人」だのといった美辞麗句で自らを身奇麗にするんだったら、その隠された牙を大衆の前に堂々と見せ付けるがいい。子供たちに「共生」だの「みんな仲良く」だの「平和」だの、言わなくても結構だ。そんなこと教えるだけ無駄だ。
本来ならその一つ一つを「格書」してみるのが本筋なのだろうけど、とりわけ取り上げたかった一冊を久しぶりに「格書」してみる。
明治以降、日本の代表的な貧民ルポなら細井和喜蔵『女工哀史』である。タイトルだけで比較するのは恐縮だが、『女工哀史』が波のように読み手に哀れさを喚起させるのに対して、『生きさせろ!』は読み手の胸ぐらを不用意に掴まえられた感覚に陥る。いいタイトルだ。
この本で取り上げられているのは、他の多くの「格差」本も取り上げる若者の経済格差である。しかし、この本は明らかにニートや引きこもり、フリーターや派遣雇用者の立場に立つ、いやそれどころか、そうした立場の人々(僕も含む)を明らかにアジっている。「若者よ。怒れ。『自己責任』という名の罠に陥るな。私たちは何も悪くないのだ」と。
我々は反撃を開始する。
若者を低賃金で使い捨て、それによって利益を上げながら若者をバッシングするすべてのものに対して。
我々は反撃を開始する。 <はじめに>
妙に古臭い言葉のようにも、ガンダムの中にでも出てきそうなクサイ台詞にも聞こえる。
彼女の主張は、一つ。こうした低賃金で働く若者の「生存権」の確保だ。
「ただ、生きる」こと。別に、立派でも偉くでもなく、「ただ、生きる」そのことへの保障だ。
成果主義が広く浸透し、「有能であること」・「立派であること」が求められるようになった今、一方で「ただ、生きる」ことさえ困難な「ワーキングプア」という層は明らかに現れている。また、ニートや引きこもりを始め、フリーターでも自活をしていない人たちも、家族の支えを失えば生きることさえ困難になる。やがて道端に寝転がる日が来るのではないかと、不安にさえ思う。僕もまた、そうなる日が来るのではと思う。
さて、雨宮はこの本ではフリーターを中心に聞き書きをしているが、その彼らに共通するのは「お人よし」な人たちである。夢を持ってフリーターの世界に入り、やがて泥沼に陥る人々。「自分のやりたいことを探す」ためにフリーターになって、やがて30歳を過ぎ、体を壊してしまい、仕事にも恵まれず、社会保障も受けることのできない人々。こうした人々は、典型的な「ダメな若者」の象徴のように、社会からよく揶揄される。曰く「『自分』なんてどこを探してもない」・「将来の設計もない奴」だと。雨宮はそうした批判にこう答える。
しかし、なぜ『やりたいことをやる』ことが、ホームレスまで覚悟しなくてはならないほどのことなのだろう。そもそも、そこからしておかしいのだ。やりたいこととその後の人生が引きかえになれるなんてあまりにも残酷ではないか。
まぁたしかにマジメに働いてきた人たちは偉い。だが、バイトをしながら夢を追ってきた人たちも同等に偉いではないか。人の二倍働いているようなものである。そんなに引け目を感じる必要はないと思うのだ。
<2章「フリーターの実態」>
「フリーター」という、企業にとっては最も安直な労働力を使い回すことで企業の業績が回復したのは、紛れも無い事実である。しかし皮肉なことに、フリーターはハムスターのようにぐるぐると車輪を回しているだけで、彼らには微々たる恩恵しか帰ってこない。
生活に困窮し、社会からは非難を食らう。そして哀しいことに、多くのフリーター自身がそのことに気づいていない。そこが「お人よし」なのだ。この多くの「お人よし」を作り上げたのは、(アメリカの影響もあろうが)間違いなく「日本の大人」である。日本古来の自然や共同体をことごとく潰し、更地になったところにビルを高々と積み上げ、嬉々としていながら、若者に説教をぶちかます「日本の大人」である。「企業人」=「社会人」として疑わない「日本の大人」である。日本の若者の多くは「お人よし」だから、彼らの一言一言に敬意を払い、「自己啓発」に余念が無い。もちろん自己を高めるのは結構だが、自己を高めない人にも「生存権」はある。「弱肉強食」で社会を動かしてはならないのだ。
僕はこの格差問題の一番の「問題」は、「ニート」や「フリーター」のような無・低収入の若者を格好のスケープゴートにして、本質である「新自由主義」や「グローバリズム」が日本にもたらす経済問題がかすんでしまったことである。もっといえば「グローバリズム」を「第二の開国」として迎えてしまったことが一番の問題で、結果、日本人は経済の内乱状態に陥っている。
社会学者山田昌弘は、これからの日本社会を「1割のコア」と「9割の取替え可能」な人材に分けられると指摘している。(『希望格差社会』)予測はあくまで予測、おそらくこの流れに拍車がかかればそうなるのも仕方が無いのかもしれない。しかし、長時間労働の末にポイ捨てされて「それも社会」と諦めるのは、残酷な話だ。(すでに本書にもあるように、そうした事例はたくさんある)。
山田の言う「1割のコア」になるためには、それなりの能力ではダメで、とてつもない能力が必要になる。椅子も限られているし、いくら少子化とはいえ、それでも数千万の人口がこの国に将来いるのは確実だ。その1割の椅子に座る可能性の高いのは、高い能力を持つ者で、そのほとんどは裕福な家庭から生まれる。(二宮金次郎は例外!!)
そうした格差を「希望格差」と名づけた山田のネーミングセンスは秀逸だが、それ以外の方法論はないだろうか。「第三の道」が答えなのかどうかは、まだわからない。
雨宮の言うように、僕も格差の本質は企業利益優先の経済体質にあると思う。
アメリカでも状況は似たようなもので、そうした体質を次々に指摘し、皮肉ったのはマイケル・ムーアである。
最近、雨宮がTVによく出るのを目にしながら「雨宮は日本のマイケル・ムーアになるのかしらん」と思ったりする。面白い。向こうがひげヅラのデブオヤジなら、こっちはゴスロリファッションの「不気味な女」だ。
追記
仕事が好きで好きで、1年中現場に立っていたいという「職人」のような仕事をすることは、僕は魅力的だと思う。「うちこめる何かがあるのはいいよね」と多くの人が口にするそれである。問題は、多くの仕事を抱え込み、1年中仕事を「しなければならない」ような人間がたくさんいることである。単に仕事をすればいいわけではない。極端に短い納期・高いノルマ・抱えきれない担当、その多くの「責任」を持たせて、効率よく、そしてキチンと良い結果を出す人間を「立派」だという社会の風潮である。確かに仕事ができることは「立派」で、一つの魅力的な存在ではあるが、「人間力」(とはほんとになんぞや?)や「社会人」(社会に生きていれば老いも若いも社会人だろ)というわけのわからない言葉でもって、仕事ができるかできないかで人間の全てを判断するのはおかしい。
そうした社会の構成員たる一人一人の無言の圧迫が、時に人を死に追い詰める格好の材料となっていることに気づいてほしい。人間はスーパーマンではない。能力の限界を超え、満身傷だらけになって、それでも「責任」を追求し追及されるのは、少し酷ではないかと。そして、「それが社会」だと開き直るなと。開き直るなら開き直るで「この世は弱肉強食」だと高らかに謳えばいい。「人間力」だの「社会人」だのといった美辞麗句で自らを身奇麗にするんだったら、その隠された牙を大衆の前に堂々と見せ付けるがいい。子供たちに「共生」だの「みんな仲良く」だの「平和」だの、言わなくても結構だ。そんなこと教えるだけ無駄だ。
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